わしが描いたら必ず顰蹙を買う。
『東大一直線』も『おぼっちゃまくん』も『ゴー宣』も、
全部、顰蹙を買う作品ばかりだ。
「いい人」に見られたいとか、「悪い人」に見られたいとか、
全然思っていなくて、「風刺」に少々の毒があっただけだが、
世間からは「悪い人」に見られるらしい。
特にリベラル左翼の人々からは、悪魔のように恐れられる。
「悪い人」にしては影響力が大きいから、「描かない方がよい人」
だと香山リカのようなリベラル左翼は思うらしい。
確かに香山リカは「いい人」に見られたい人だから、
わしは悪い企みと、悪い動機を持って、弱者をいじめるために
描く人と思い込んでるようだ。
対談のときも、なぜアイヌ問題を描き始めたのか、その動機に
悪意があっただろうという追求をしきりにやっているので、
あきれ果てた。
偏見はすなわち差別である。
「いい人」に見られたい人間は本当に恐ろしい。
歴史上、「いい人」に見られたい人間が、どれだけ「偏見」で
人を弾圧・虐殺してきただろう。
誰に何と言われようと、わしは自分の「常識」を信じている。
わしの言う「常識」とは、同調圧力で形成されるムラの「常識」
ではなく、歴史的に醸成された日本人のバランス感覚のことで
ある。
「王様は裸だ」と見破る感性は、この歴史的なバランス感覚と
しての「常識」を発揮させているだけのことだ。
しかし久しぶりにPTAみたいな女に、悪書認定されて、
わしって意義のある作品を描いているのだなあと、再認識した。
『新戦争論1』が世に出たら、今度はどうわしは評価されるの
だろう?
また「悪い人」になるのだろうか、「悪書認定」されて、
描くべきではなかったと言われるのだろうか?
案外、実は「いい人」だったと評価が変わったりして・・
いや、それはあり得ないか。




















